< 坐 >


坐というものは何か動かないもののようでありますが
行住坐臥、見聞覚知、ことごとくこれが坐でなければならないのであります。
そういう坐にしてはじめて大乗の坐ということがいえます。
そういうものでないものは、真実の坐ということはいえないのであります。
私どもはそういう坐というものを得なければならない。
そういう坐を坐らなければならない。
「凡情脱落し、聖意皆空ず」る底、「殺仏殺祖」底
ここまで行かないことには、本当の「おちつき」にはならないのであります。

ところで次に、「よくおちついて」ということと
「本来の自己にめざめ」ということとの関係でありますが
一応、おちつくということは、「本当の自分にめざめる」方向であります。
「本当の自己」はおちつくことによって達せられるような方向にある私であります。
しかし実をいいますと、本当におちついた私の外に本当の私はないのであります。
「よくおちつく」ということは
一応は「本当の自己」への方向を表した言葉のようにみえますが
しかしそれではまだ本当によくおちついたということにはならないのであります。
「よくおちついて」ということは、それは目的自身であります。
よくおちついた私の外に本当の私というものがないというのは
それがためであります。
坐というものはよくおちつく方法のように一応はみられるのでありますが
本当の坐というものは方法ではなくして、むしろ目的である。
その坐というものが本当の坐であります時に
その坐は本当の私であるのであります。
本当の坐と本当の私というものとは
そこでは決して二つではなくして全く一つである。
その坐において、私は分裂でない自己
本当に具体的に絶対一なる私になるのであります。
ところが、その私というものが普通容易に具体的に現成いたしません。
普通は、それが推論されたものであったり
あるいは抽象的なものであったりいたしまして
それが本当に具体的な生きたものになっていないのであります。

普通黙って坐っているということが、それが非常に退屈なこと
何か空虚なことに感じられがちであります。
私どももかつてはそういうように感じたこともあります。
一週間坐って一週間浪費した、何の得るところもなかった
退屈で一週間経つのが待ち遠しかったと
こういうことでは坐が坐になっていないのであります。
坐というものは永遠なものでなければならない。
それはいつまで坐っていても飽くということはないというようなものでなければならない。
そこには退屈というようなものは微塵もない。
それは実にはりきった充実したものである。
これくらい退屈でない私の在り方というものはない。
この在り方に対して、一切の他の在り方はむしろかえって非常に退屈なものである。
普通にいう意味で私どもが働いているということは分裂しているということであり
これは実に退屈なものであります。
分裂している私というものほど退屈な私はない。
この点は普通の考えと丸きり逆なものになっているのでありまして
普通は何かじっとしていると退屈であるということになりますが
それはこのじっとしているということが、本当の意味でなにもやっていない
じっとしているということになっていないからであります。
本当の意味で一である私でないからして
じっとしているということ、何もしていないということ
それが退屈であるのであります
私どもの坐というものがそういうものであるならば
これはむしろ、何でもよろしい、何かをやっていた方がましである。
坐が何かをしていることの単なる否定であれば
それこそ空虚なこと退屈なことである。
これはむしろ生命の弛緩であり、ただの否定である。
私どもはそういう状態というもので一時もあってはならない。
どこまでも何かをするということでなければならない。
しかしながら、本当にじっとしている、本当に何もしていない坐というものは
これは最も生命の緊張した、弛緩のない、本当をいうと
緊張、弛緩という二つがない、いわば絶対緊張ともいうべき生命の充実であります。
この時にはじめて本当の生命というものを得るのであり
本当の生命であるのであります。
それでありますからして、この坐というものにおいて
私どもはむしろ無限の愉悦を感ずる。
そこに無限な安らかさ、無限の慰安を感ずる。
私どもがたとえそこまで達しませんでも、何か坐っております間に
坐るということでおちついてくることによって
何か安らかさと愉悦とかを感じて
もっとこのままの状態でおりたい、もう時間が来たのか
もっと坐りたいと思いますのは、これはそのような状態が絶対的な慰安
愉悦というものへの方向にあるからです。
その方向に本当に徹し切った時が大安心であります。
この徹し切った私というものの外に安心というものはない。
安心ということ、救われたということ、あるいは解脱ということ
それはそこを指していうわけであります。

エックハルトは、「神を非神、非霊、非形のように愛せよ」ということをいっておりますが
神を神でないように愛するということは、これはどういうことでありましょうか。
神を神であるように愛するということ、これは普通でありましょうが
神を神でないように愛するということは
これは神というものと私というものとの分裂というものをなくすということによって
はじめてできることであります。
神を形がないように愛するということ、こういう愛し方ということは
神が対象的でありますならば形があるわけでありますからして
これは不可能であります。
霊であってもいけない、人であってもいけない
人格であってもいけないという愛し方というものによって
アンチノミーというものがなくなる、二律背反というものがなくなる
全く純な無垢な一になることができる。
その一においてわれわれは存在からして非存在というものに沈潜するのである
こういうふうにエックハルトは申しておりますが
もしも神が私の外に対照的にありましたならば
それは存在であって非存在、無であるとはいえないのであります。
この無は私どもの立場から申しますならば、これが本当の私であります。
ここへ沈潜するということ、これが本当の「おちつき」であります。
沈潜という言葉は、これはおちついて行く、沈んで行く
沈殿して行くということ、泥がおちついて
波立ち濁った水がすっかり澄み切って行くということを意味しております。
その澄み切った水というもの、それが無である、それが私である。
それはもはや形のないもの、無相なもの、無形なものである。
この無相無形なものにおいてはじめて私が一切のものから解脱する
救われるということができるのであります。
仏がもしもまだその外にあるというようなことでありますならば
それは本当の仏ではないのであります。
私の外に仏というものはない。
仏もなければ人もない、仏もなければ衆生もないという私というものが
一に沈潜した私であり、本当に神を愛し、仏を愛する私であります。
ここにおいては愛するものと愛されるものとの二つはもはや微塵もありません。
全くの一でありますが故に、その一は絶対に清らかである。
そういう一をもし心と申しますならば
心清きものにしてはじめて真の私を見ることができる
本当の私を見ることができるのである。
本当の私の他に神はありません。
これは一でありますが故に、富んだものではなくして
貧困なるもの貧しいものである。
富んだものは本当の自己にめざめることはできない。
沢山にものを持っているもの、分裂して一でないもの
それが富んだものである。
一は実に単純である。
単であり純であって、そこには一点の塵さえない、全くの一である。
これほど貧困なものはない。絶対貧ともいうべきものである。
それでありますからして、そういうものを普通虚無に譬えるのであります。
全くの虚無であって、その内にも外にも何ものもない
内外ともに一物も存しない、全くの無一物
これこそ本当の貧困であります。
六祖大師が「本来無一物」といったのはそこを指していったのである。
貧しきものでなければ天国に生まれることはできない
といわれます場合のその貧しい私
この私の外には神もなければ天国もないのであります。
その外に天国の天国と称すべきものもなければ
神の神と称すべきものもないわけであります。
で、私どもが本当に実究し、坐禅をするということは
これはその根源の処で皆結びつき
根源の処で皆語り合っているということであります。
言葉で話し、動作で語るという
こういう語話というものはまことに退屈なものである。
じっとしていて、語りもせずに、それが本当の意味での語り方でありますが
そういう語り方というものをわれわれはしたいと思う。
身体で語らず、口で語らず、心で語らず、何もせずに、口一つ動かさず
身一つ動かさない語りというもの、この語りこそ唯仏与仏の語りである。
仏と仏というものの語りである、話である。
そういう根源的な話というものが外に表れて
口なり身なり意なりに表れ出て、それが話すということになって
はじめてその表れた語りというものが私の真実の語りになってくるわけである。
常に私の語りはそこからの語りでなくてはならない。
実はこういう根源的な語りというものが普通にはないのであります。
それでありますからして、黙って坐っております間に、実にぎこちなく退屈に感ずる。
これは黙るということが判らないからであります。
真の黙というものは本当の私でなければならない。
常に私がそれでありますならば、黙るということが最も賑やかなことである
一切の賑やかさというものを未だ形にならない前に一体として
自らの中に含んでいることであります。
形に表れた賑やかさというものは
単なるやかましさに過ぎない、結局は幻滅を感ずるものである。
賑やかさであればあるほどついには淋しさを感ずる。
これに反して本当の賑やかさというものは一黙の中にある、無の中にある。
この無の中に私というものがあります間、この孤独ほど賑やかなものはない。
普通のさみしさ、普通の孤独というものは
賑やかさを求むるさみしさであり、孤独である。
そういう孤独というものはこれは退屈なものである。絶望である。
けれども本当の孤独、これは未だ表われざる前にすべてを含んだ孤独である。
「乾坤ただ一人」ということを申しますが
この天地の間にただ一人というその一人
これが本当の私であります。

心の坐でもなければ
身の坐でもないような坐というもの
そういう坐にわれわれは徹しなければならない。

(「人類の誓い」久松真一)





宮崎市佐土原町「大光寺禅堂」




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