< 孝 道 和 讃 >


父母から受けた深い恩恵に報いるには
自分の身の上に顧みて尋ね見るがよい。
若し父がいなかったらこの世に生まれることもなく
母がいなかったら養育されることはない。
それ、天地で言えば父は天であり、母は地であり
この身の頭から足の先まで、すべて父母から受け
その恩恵を蒙ったものである。
慈悲の御恩は、なかなか文字や言葉でのべられるようなものではない。
まず母胎に宿り、生まれるまで十ヶ月程も胎内にあって母に憂い思いをかけ
出産に当たっては痛み苦しみを節と節、骨と骨とが離れるまでにかけ
或は気を失って生死の境に至るまで苦労をかけたのであり
この蒙った御恩はどうして報いたらいいかである。
両親は生まれて三才頃までの
西も東も知らないこの赤子の身を抱いたり起したり臥さしたりし
殊に母親は赤子の小便大便の垂れ流しのなかに乳を飲ませ
小便でびっしょり濡れた寝床に赤子と共に寝
乾いた方に赤子を移して寝させる等
母親の赤子に対するいたわりの情、深い恵は教えても数え切れない。
また小便大便でよごれたものを毎日毎日取り扱って手の十二本の指
その爪は皆汚くなって仕舞い、その指爪をなめても汚いと思って厭うことがなく
ただ可愛がり、身につける衣服もほどほどにちゃんと按配し
食べものの味もよいようにつけ、堅いものなどは食べ易いように噛みこなして与え
暑いにつけ寒いにつけ、そんなことまで皆よく考えて、親切に恵み養い育てるのである。
この母の大恩はどんなに報い尽そうとしてもその仕様がない。
ただ子のためとばかり思って、自分の身のことは忘れ
好い絹地があれば母は自分の衣類を作って着ないで
まず子に着せて悦び、ある時は食べものもうまいものは
まず子に与えて喜ぶのを見て楽しみとしている。
子の泣く声を聞く時は、母は心配で心配で胸騒ぎをし
取るものも取りあえず乳を与えふくませ
子の成長を楽しみにして自分の苦労など顧みる暇とてない。
それがそれから二、三年も経つと、母の若かった花のようないつくしい顔も
だんだん年を重ねてみにくくなるが
そんな時に母親は、自分の一生を徒らに過ごしたものだとは思わないで
思うことは子のことばかりであり、赤子が匍うようになると
匍うよりは早く立つことが出来るようになってほしいと願い
或は物が言えるように成長してほしいと頼み
そうなることを楽しみにして養育している。
赤子が自分でものを食べることを知らない時は
母親は噛んで与えて口を開けて食べさせ
いくらか成長して自分の手で食べられることが出来るようになると
箸の持ち方、飯椀の持ち方までも教え
その上に垂れた小便の世話まで、その他のいろいろの世話を受けているのである。
ところがその受けた恩恵を皆すっかり忘れ
利口顔をして自分独りで育って目も開き、口もきけるようになったと思って
父母をないがしろにして踏みつけている輩がある。
いとけない頃から、父母の憐みによって養育された御恩の
百分の一でも報いては仕えるのであったら
少しは父母から受けた恩を知っているものと、神や仏も御覧になろう。
ともかくも父母は子供に対しての憐みの心は深く
子供が成長してもその情に変りはなく
子供から恩を受けて有り難かったという言葉の一言を
かりそめにかけられたとしても
その言葉にどんなにか大きく喜ばれることであろう。
ましてこまごまと気をつけて、父母に朝夕仕えるのであったら
どんなにか悦ばれることであろう。
父母がたとえ無理なことを言ったとしても
自分が子供の時に悪戯をしたり、疱瘡にかかって苦しんで
抱けとか、歩けとか、負うてくれとか無理なことを言って
ころんで泣き叫んで迷惑をかけたり
抱かれていて小便大便を垂れかけたりしたような
そんな無体なことを父母は子供に対してするわけでなく
父母はそんなわけわからずある筈はなく
かりにそれがあったとしても、自分が子供の頃に
無体なことを幾度も親にしたことのあったことを思い起したら
どうして腹を立てて背いてよかろうか。
この一事を思い起こせば、その外のことについてもすべて父母に対して
なすべきことを思い起こして知らなくてはならない。
『孝経』に「五刑の属三千、而して罪不孝より大なるは莫し」とあるように
五刑とか、その他、多くの刑罰はあっても
父母に不孝をなす程の大きな罪はない。
孝行と言えばまずとにかく、自分の身を修め
今日の与えられた職業を大切にして
怠りなまけることなくつとめて、心を正しく誠を尽くすことである。
朝から暮に至るまで、ただ父母が安心していられるよう身を持し
行住坐臥にわたってよく気をつけてまめに仕え
使う言葉も忠実で、温かい心でもって慰めなくてはならない。
父母のためにしなくてはならぬことがあったら
自分の骨を粉に身を砕いてもつとめ
よく仕えてこれまでに蒙った御恩に報いることであり
どんなに報いても報い尽せるものではない。

”親よりも受けし骸を如何にまた 骨身悋みて事えざらなん”

『孝経』に「夫れ孝は徳の本なり 教の由いて生る所なり」とある。
一体、こうして自分がこの世にあるためには
誰の養育を受けて生きているのかと、その根元をよく尋ね知ることである。
とにかく親に孝行をつくし、主に忠義をいたすことを忘れてはならないのである。
親子の近い間柄にむごいことが行なわれているのを見たら
全く他人の間柄であったら、こんな恐ろしいことはなかろう。

(白隠禅師)






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