< 神 仏 習 合 >


仏教公伝以来七世紀末ころまでの一世紀半余りに及ぶ時間(約170年間)は
日本における仏教興隆期であるとともに、古来の神祇信仰の仏教が接近し
やがて両者が習合に至る素地の形成期でもあった。
この素地を踏まえて、神仏習合が現象となって現われる。
最初の習合現象はどのようにして起こり、どのような形で現われたのであろうか。

神仏習合現象が発生するには、仏教伝来以来の時間的経過の中で、単一ではなく
複数の各面において徐々に素地が形成されていったと考えるべきであろう。
ここでは四つの側面にまとめて述べていくことにしよう。


@ 神祇・仏教両者の内容面より形成する素地

神祇・仏教両者の内容は大きく異なるが
両者とも他を排斥する一神教ではなく
多神教であるという共通点をもっている。
これは重要な要素であり、多角的に物事を摂取し
何事にも融通のきく解釈ができる日本人にとって
両者間を接近させる出発点になったと考えられよう。
また、仏教の中に諸天(しょてん)というものがある。
釈迦が仏教を開いて後、インド固有の神々を仏教の中に取り入れ
仏法守護の役割をそれぞれに課して諸天とした。
わが国において
これら諸天は日本固有の神々に相応すると考えられるようになっていく。
仏教を教義的理解を通してではなく
神祇信仰にもある呪術的・現世祈願的なものに期待する形で受入れ
仏教の一段と高度な呪術に影響されることが大きくなっていく。
仏教のこのような直観的理解は
仏教のもつ外見面の相違が神祇信仰にも影響を及ぼすこととなり
人格神の登場や神社に社殿が建てられるなどの現象をみるに至る。
以上のことがらに
両者の接近・習合に至る一つの素地の形成を見出すことができるであろう。



A 仏教受容面より形成する素地

仏教本来の立場からすれば一つの矛盾ではあるが
祖先崇拝と結合して仏教が受容され
また仏教を祭祀的な面において受容したり
さらに、海上から訪れてくるものはまさに祖霊
「まれびと神」として受容されるなど
いずれも習合の素地を形成するものである。
一方、社会構造面からみると
四・五・六世紀は豪族(氏族)間の抗争が激化した時期であり
豪族たちの支配が再編成を繰り返していく。
この中で本来の豪族の守護神(氏神)が
新たに編入された被支配者に対して従前のような威力を発揮できない。
(日本の神祇は地域的閉鎖性をもっていた)
いわば支配の上で危機的状況に迫られた豪族たちは
ここに普遍的神性として仏教を受容する基盤ができていった。
したがって、地方における仏教はまず豪族によって受容され
一般大衆(農民)は豪族を通して間接的に仏教を受容した。
その中で
仏は何よりも荒ぶる神を鎮めるものとして受容され
大衆の間に「神も仏もない」という意識を培い
やがて、習合現象が地方を舞台に起る素地が形成されていく。



B 国家の宗教政策より形成する素地

伝来の仏教は
しばらくの間、天皇(国家)の立場において受容されなかった。
したがって、当初の日本仏教は氏族仏教として展開した。
本格的に天皇の立場において仏教を受容するのは
七世紀後半の天武天皇である。
天皇は、『金光明経』・『仁王経』・『法華経』など
鎮護国家の経典(いわゆる護国の経典)を重視し
公的な立場において受容する。
つまり律令国家の中に仏教を組み入れることにより
国家仏教として成立し、ここに神仏は同格となる。
それは、Aの氏族社会が仏教受容に至った宗教意識の
より一層の明確化の上に立っていたともいえよう。
神仏同格を打ち出した国家は、さまざまな”国の大事”にさいして
神祇・仏教の双方に祈願することになる。
このような動向の中にも神仏習合の素地が生まれる。



C 仏教徒の山岳修行より形成する素地

大化改新の七世紀後半から急速に盛んとなる仏教徒による山岳修行は
仏教徒が山に入ることに意味があり
彼らが山に陳鎮まる神々や諸霊を避けて通るわけにはいかなかった。
彼らはまず、神々や諸霊を祈り祀って、その協力と保護を得ることにより
自らの修行を可能とすることができたであろう。
したがって、仏教徒の山岳修行を通じて
神仏の接近はおろか、きわめて自然な形で
どの面よりも先んじて神仏習合の端緒(行為の上で)を開いたのである。


以上、四つの側面にまとめて習合の素地形成をみたが
要するに、@Aがまず形成し
七世紀後半に至ってBCが決定的なものに導く形で登場した。
しかもCは重要な素地であるとともに
習合への端緒を開いていたことは注目に値する。




< 本 地 垂 迹 説 >

本地垂迹説は一挙にまとまった形で現れたのではない。
この思想は「本地」と「垂迹」から成るが、垂迹思想の方が先に現れてくる。
垂迹は本来「迹(あと)を垂(たれ)る」という意味であり
垂迹の語が文献上に初めて認められるのは
貞観元年(859)八月、延暦寺の恵亮が賀茂神と春日神のために
年分度者(毎年決まって得度させる僧)を置くことを請う上表文に
「皇覚の物を導くは且つは実、且つは権。大士の迹を垂るるは、或は王、或は神」
とある文(「日本三代実録」)である。
皇覚は如来、大士は菩薩の意であり、権は実に対する仮のものをいう。
つまりこの文は、仏菩薩は真実の姿で現れることのほかに
時には仮の姿である神として現れることがあるといっている。
続いて、承平七年(937)十月四日
大宰府より箱崎宮に出された宝塔造立を命ずる牒(文書)に
「彼宮此宮その地異なりと雖も権現菩薩垂迹猶同じ」
と記されている部分があり(「石清水文書」)
一段と発展した形(垂迹思想のみならず権現思想まで登場する)をみることができる。
これは、かつて最澄が全国に六所宝塔院を創立し
各塔ごとに一千巻の『法華経』を書写して納め
その功徳によって鎮護国家と天下泰平を祈ろうと発願したことに由来する。
ところが最澄の生前およびこの時期に至るまで
五ヶ所の宝塔院は完成していたものの、豊前宝塔院だけが未完成であった。
塔に納める書写の経典も寛平年中(889〜898)に焼失していたので
承平五年(935)より箱崎神宮寺で改めて写経がおこなわれ、ついで塔が建立される。
先の文書の文言は場所を移したる優の説明であり
宇佐と箱崎とで土地は異なっていても
権現大菩薩(つまり八幡菩薩)が垂迹されることに変わりはないという意である。
これらの文献を通して、垂迹とは、仏や菩薩が衆生を救うために
仮に日本の神々になって現れたという意であり
垂迹の結果として出現した神が権現ということになろう。

このような垂迹思想・権現思想は
やがて一つのまとまりをもって本地垂迹説として結実する。
本地とはものの本源・本来の姿をいい、ここでは仏や菩薩の本来の姿をいう。
したがって本地垂迹とは、本源としての仏や菩薩が
人間を利益し、衆生を救うために、迹を諸方に垂れ
神となって形を現わすという説のことである。
この説がある程度のまとまりを示したのは、十世紀後半のことと考えられる。
この思想の根底は権実思想の問題であり
インド・中国でも教理上重要な役割を果たしてきたが
わが国では法華一乗(大乗)の立場にある天台宗において
教学研究の中で本地垂迹を説くことが多かった。
前章において八幡大菩薩の顕現が八幡宮寺
とりわけ弥勒寺僧集団の経典研究によるところが大きかったことを述べたが
弥勒寺は天台宗と結んでいたのであり
経典にもとづく神仏関係の研究に熱心であった事情が理解できるであろう。
本地垂迹説も当初においては漠然としたものであり
単に、権現や垂迹の思想として認めうるのみであった。
初期本地垂迹説は十一世紀を迎えるころともなると
全国的にかなり普及したようである。
たとえば、寛弘元年(1004)十月十四日の大江匡衡が尾張国熱田神社に
大般若経を供養したときの願文に「熱田権現の垂迹」という語がみえる。
また、同四年(1007)八月十一日
藤原道長が金峯山(吉野山)に埋経した経筒の銘の中に蔵王権現の語がある。
これらは当時を代表する人物が用いていることから
権現思想が相当広く普及していたことを物語るとみてよい。
さらに、『今昔物語』にも蔵王権現・熊野権現などの語がみられ
一般的にはほぼ十一世紀前半ころまでこのような状態が続いたものと思われる。

十世紀の段階では漠然とした形でしかなかった本地垂迹説も
十一世紀半ばから十二世紀(平安時代中末期)には
具体的となり、深まりをもって普及していく。
その端緒となったのが本地仏の設定であろう。
つまり、この神の本地(本源)は何という仏・菩薩であるかということが
具体的に決められていくのである。
いいかえれば、この神は、この仏が垂迹したものであると
説明されるようになっていく。
全国各地の神社に祀られている神々の一つ一つに対して
本地仏が決められていくのである。
この動向においても
やはりどこよりも先んじていたのが宇佐の八幡神宮であり
十世紀半ばころまでに
宇佐を中心とした地域で八幡神に対する本地仏の設定がなされていたようである。
十二世紀以降の文献には実に多くの事例がみられるようになる。
『長秋記』長承三年(1134)二月一日条に
熊野の本地仏として、三所の丞相が阿弥陀仏、両所は千手観音
中宮は薬師如来、五所王子の若宮は十二面観音
禅師宮は地蔵菩薩、聖宮は龍樹菩薩
児宮は如意輪観音、子守宮は正(聖)観音と示している。
平清盛が厳島神社に奉納した経巻の願文には、当社の本地を観音と記す。
次に春日社の本地仏について
『春日社古記』承安五年(1175)三月一日条に
一宮は不空羂索観音、二宮は薬師如来、三宮は地蔵菩薩
四宮は十一面観音とみえる。
さらに、『卅五文集』には祇園三所権現の本地を、薬師如来・文殊菩薩・十一面観音とし
『古事談』では賀茂の本地を観音、伊勢神宮と厳島社の本地を大日如来と記している。
最後に『諸神本懐集』には実に多くの神々の本地を記すが、その主なものを示しておく。
鹿島大明神=十一面観音、天照大神=観音
素戔鳴尊=勢至菩薩、熊野三所権現、二所三島の大明神、八幡三所
祇園=薬師如来、稲荷=如意輪観音、白山=十一面観音
熱田=不動明王、などである。
以上のように、全国各地の大社から小社に至るまで
その祭神の一つ一つに本地仏が設定され
本地垂迹説は具体性をもって普及していくことになった。
なお、本地仏の設定は貴族・僧侶ら知識人たちが
研究と思考の結果としてなしたものであるから
ひとたび設定されても後に変わる場合もあったり、異説が生じる場合もある。
先に示した事例からもうかがいことができるであろう。


< 反 本 地 垂 迹 説 >

本章ではもっぱら本地垂迹について述べてきた。
この説は、要するに仏が根本であり神は仮の姿であることを主張した。
この説を中心に、神に対する理論づけの試みがなされるようになり
中世の期間中に四つの神道論の誕生をみた。
すなわち、伊勢神道・山王神道・両部神道・唯一神道がそれである。
このうち、山王神道(天台の神道)・両部神道(真言の神道)の
二つは僧侶による研究の結果、生み出された神道論であり
その理論的拠所は本地垂迹であったことはいうまでもない。
ところが、伊勢神道と唯一神道は本地垂迹説に対抗するものとして
出現するので注目される。
ここではこの二つの神道論について述べておこう。
伊勢神道は伊勢に起った神道なのでこの名がある。
これは、伊勢外宮の神官度会(わたらい)氏が唱えたもので
度会家行(1256〜1362)によって大成された。
その成立は、「神道五部書」の成立をもっていう。
五部書の成立時期は従来諸説あったが
建治三年(1277)九月から弘安三年(1280)六月にいたる時期に
求められるようになった。
まさに未曾有の国難と称された元寇の時期に相当する。
五部書のいうところ、神徳とともに国家の永久性を説き
それを明示するものとして、三種の神器と神勅(「古事記」「日本書紀」)に焦点を置く。
その理論化は仏教臭を排除しようとする意図から出たもので
易や老荘の思想を用いてなされている。
従来の神国思想においては、神の加護を受ける国という観念のもとに説かれていた。
しかし五部書では、一歩進んで
神明と天皇とが一体であり、神器と皇位が一体であることを強調している。
これを踏まえて、このような神道の本義を体認するためには
清浄と正直とをもって神の心に接することを必要とし、万事は一心より起るのであり
みずからの心を清め正しくすることでなければならないとする。
ここで注意するべきは神と仏の峻別であろう。
これまでの神仏習合思想をぬぐいすて
仏教その他の思想的影響から神道の自主独立を促している。
神道古来の姿を意識し
神道みずからが明確な理論と主張をもとうとしていることに、大きな意義がある。
これを受け、伊勢神道を体系化したのは度会家行である。
彼の代表的著作である「類聚神祇本源」によると
仏教の流布を神道の化現であるとしており
神主仏従の思想をうち出している。

中世神道論の最後に登場するのが
京都の吉田山(吉田神社)に発する唯一神道(吉田神道)である。
この神道論は、吉田兼倶(卜部兼倶)によって確立されたものであり
兼倶の「唯一神道名法要集」に典型的な形となって現われる。
彼は豊かな卜部家の家学の伝統と成果を背景に
吉田卜部家の神道を確立したのである。
「唯一神道名法要集」がいつ成立したかはさだかでないが
彼が日蓮宗との間に論争を起した明応六年(1497)の前後といわれている。
時は室町時代も末期の戦国乱世に突入していた。
「唯一神道名法要集」にみる兼倶の神道論は
まず、これまでの神道を分類して、本迹縁起神道・両部習合神道とし
新たに元本宗源神道を提唱する。
そして、仏法は万法の花実、儒教は万法の枝葉であり
神道は万法の根本であって
仏教・儒教はみな神道の分化にすぎないという。
ここに、仏教・儒教の説を用いながらも
神道を主(根本)とすることが”唯一神道”の主張となる。
元本宗源神道・唯一神道、両者の意味するところは同一である。
鎌倉時代からしだいに芽生えてきた反本地垂迹説への方向が
唯一神道の成立によって明確なものとなった。
伊勢神道の神主仏従(つまり反本地垂迹)への思想の逆転は
注目に値するものであるとともに、それが未曾有の国難といわれ
戦国乱世といわれた屈指の激動期に関わっていることも
大いに考えさせられることであろう。


(「八幡神と神仏習合」逵日出典より)





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