< 世阿弥 と 神仏 >


この申楽という長寿延年のための芸能は
その源流を尋ねると、一説では仏在所(インド)で始まったといわれ
また一説では神武天皇の時代から伝わるとも言われるが
年月が経ち、時代も隔たってしまったので
その辺のことを調べるのは大変難しい。
最近、世間の人が噂するところでは
推古天皇の御世に、聖徳太子が秦河勝にお命じなさって
天下の安全のため、また人々の娯楽のために
六十六番の遊宴を催して、申楽と呼んで以来
時代時代の人々が風月の景物をかりて申楽を演ずる手だてとした。
その後、あの河勝の遠い子孫が、この芸を受け継いで、春日・日吉の神職になった。
そのため、大和の国・近江の国の申楽者が両社の神事に従事することが
現在盛んなのである。



<神 儀 云>


《神代申楽の始まり》

申楽が神代に始まったというのは
天照大神が天の岩戸にお籠りになったときに
天下が常に真暗になってしまったので
八百万の神々が天の香具山に集まり
大神にお心をとろうとして、神楽を演奏し
細男(神楽の後に行われた才男の散楽)をお始めになった。
なかでも、天の鈿女の尊が進みになさって
榊の枝に弊を付けて、声を挙げて、火処(神祭の場所でたく火)を焼き
足を踏み轟かし、神憑りをすると、歌い、舞い、音楽を奏でなさった。
その声がかすかに聞えたので、大神は岩戸を少しお開きになった。
国土はまた白々と明るくなった。神たちのお顔も明るくなった。
その時の御遊びが、申楽の始めだと云われる。


《仏在所(インド)の始まり》

仏在所(インド)では、須達長者が祇園精舎を建てて供養をした時
釈迦如来の御説法があったので、堤波達多が一万の異教徒を伴って
木の枝や笹の葉に弊を付けて、踊り騒いだため、御供養を上げ難かったところ
仏は舎利弗へ目配せなさると、仏力を受けて
御後戸において鼓・舎利弗の智慧・富楼那の弁舌によって
六十六番の物まねをしなさったので
異教徒は笛・鼓の音を聞いて後戸に集まり、これを見て静かになった。
その隙に、如来は供養をお上げになった。
それ以来、天竺でこの道は始まったのである。


《日本の起源》

日本国においては、欽明天皇の御時世(540〜572)に
大和国泊瀬の河が洪水になった時節に、川上より一つの壺が流れ下りた。
三輪の杉の鳥居のほとりで、殿上人がこの壺を拾った。
中に赤ん坊が入っていた。容貌は柔和で、玉のようであった。
これは天下った人であるために、内裏に奏上した。
その夜、帝の御夢の中で、赤ん坊が云うには
「我は、大国秦の始皇の生まれ変わりである。
日域に機縁があったので、今ここにいるのだ」と云った。
帝は、奇特なことと思い召され、殿上にお召しになった。
成人するにつれて才智は人々を越え
年齢十五にして大臣の位に昇り、秦の姓を賜わった。
「秦」という文字は「はた」であるが故に、秦河勝がこの人である。
上宮太子(聖徳太子)は、天下が少し乱れていた時に
神代、仏在所の吉例を参考にして、六十六番の物まねをあの河勝に仰せになり
同時に六十六番の面をも御作りになって、河勝へお与えになった。
橘の内裏の、紫宸殿において、これを勤めた。天下は治まり、国は静かになった。
上宮太子は後世のために
神楽であったの「神」という文字の偏を除いて、旁をお残しになった。
これは暦の申であるが故に、申楽と名付けられた。
即ち、楽しみを申すということである。または、神楽と分けたからである。
あの河勝は、欽明・敏達・用明・祟峻・上宮太子に仕え奉り
この芸を子孫に伝え、化人は跡を留めないものであるから
摂津国難波浦よりうつぼ船に乗って、風に任せて西の海へ出た。
播磨国越坂浦に着いた。
浦の人が船を上げて見ると、船の形が人形に変わった。
人々に取り憑いては奇跡を起こした。
そこで、神として崇め祀ると、国は豊かになった。
大きいに荒れると書いて、大荒大明神と名付けられた。
今の世にあっても霊験あらたかである。
本体は毘沙門天王であらせられる。
上宮太子は守屋(物部氏)の逆臣を平定なさった時も
あの河勝の神通方便の手によって
守屋は倒れたと云われている。


《平安朝の起源》

平安京において、村上天皇の御時世(946〜967)に
昔の上宮太子の御筆になる申楽延年の記録を叡覧されるに
まず神代、インドの始まりに、月氏・震旦・日域に伝わる狂言綺語によって
讃仏転法輪の因縁を守って、摩縁を退けて
福裕を招く申楽舞を演奏すれば、国は穏やかに
民は静かに、寿命は長遠であると、太子の御筆が新たであることから
村上天皇が申楽をもって、天下の御祈祷とすべきであるとおっしゃられて
その頃あの河勝の申楽の芸を伝える遠い子孫は、秦氏安である。
六十六番の申楽を紫宸殿に奉仕する。
その頃、紀権守と申す才智に優れた者があった。
この者は、その氏安の妹婿である。
この者をも伴わせて申楽を奏した。
その後、六十六番まで一日で勤め上げるのは難しいとして
その中から選んで、稲経翁翁面・代経翁三番申楽・父助この三つに定めた。
現在の式三番はこれである。
すなわち、法・報・応の三身の如来を象って奉納するのである。
式三番の口伝は、別紙にあるだろう。
秦氏安から光太郎・当代金春までは、二十九代も下った遠い子孫になる。
これが、大和国円満井の座である。同様に氏安より相伝されている。
聖徳太子が御作りになった
鬼面・春日大明神の御神影・仏舎利この三つは
この家に伝わる所である。


《当代の起源》

当代において、南都興福寺の維摩会で
講堂にて法味を行いなさる時節に、食堂において延年舞がある。
外道を和らげ、魔縁を静める。
その間に、食堂の前にて、かの御経を講じなさる。
即ち、祇園精舎の吉例である。
そうあれば、大和国春日興福寺神事行いとは
二月二日、同五日、宮寺において
四座の申楽、一年中の御神事初めである。
天下泰平の御祈祷である。

(「風姿花伝」より)






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