< もう一つの日向神話 >
(佐伯恵達「廃仏毀釈百年 虐げられつづけた仏たち」より)


<鵜戸神宮>




鵜戸山仁王護国寺は寺祿五百石の大寺院で
近世伊東氏の祈願でもありました。
鵜戸山というのは、海岸に突出する五十六町の山を名付けたものですが
ここでいうのは山号なのであります。
山号というのは寺院号の上に冠らせるもので
地域条件や教義に基づいて付けられるものです。

この仁王護国寺は大権現の別当寺でした。
”権現”とは仏菩薩の化身のことです。

この創建は、恒武天皇の勅願寺として
僧光喜坊久が延暦五年(786)秋に舎殿三宇を建て
僧堂を設けて開基開山したというのが妥当です。
その時、勅命によって寺号を「鵜戸山仁王護国寺」と賜りました。

仁王護国寺とは『仁王護国般若波羅密多』の所説に基づいて
鎮護国家・増長宝寿・天下泰平・七難除滅等のための
秘法を修行する道場ということです。
わが国にはそれ以前には鎮護国家等の思想はありませんでした。

仁王護国寺の代々の住職は相い伝えて九代までは天台でしたが
後三代は門跡(皇族)から住職が置かれました。
中頃以降は真言宗に変わったといわれています。
明治の廃仏毀釈まで、千有数十年の長い間
第九十六世観宥にいたるまで連綿としてその職は継がれたのです。
同時にこの住職は鵜戸一山を取り締まる別当職でもありました。
現在その別当職(住職)の墓が残存していますが
最後の別当の墓は、郡司分長昌寺にあります。

鵜戸山仁王護国寺は、古来、鵜戸山と愛称されて
広く庶民に親しまれ崇敬され、近郷近在はもちろん
遠く数十里の外である鹿児島方面からも参詣客が郡参したのでした。
とくに近郷では、男女六、七歳までには必ず参拝するのが習わしで
子供たちは鵜戸山参りをしたことを誇ったものです。
海岸の高所に細い掛け橋があり、これを渡ることがいちばんの難所だといわれ
「うそをついた者は橋から落ちる」などと言われていました。
子供たちはみな、鵜戸山といえばこの掛け橋を連想して
親にうそを言った経験のある悪童たちは恐れをなしたものでした。
仁王護国寺はこうして子供心にまで
それとなく勧善懲悪の道徳心を植えつけていたのです。

この仁王護国寺には、十二の支院がありました。
その支院は次の通りです。廃仏毀釈の状況と合わせてみてみましょう。
不動院・・・祿十石。廃仏毀釈後、神職の居宅となった。
宝寿院・・・祿八石。明治五年破却。
大光坊・・・明治五年破却。
持宝院・・・明治五年破却。
常福院・・・明治五年破却。
延命院・・・明治五年破却。
隆真院・・・廃仏毀釈、神職の居宅となった。
新南院・・・明治五年破却。
上ノ坊・・・明治五年破却。
明王院・・・明治五年破却。
弥勒院・・・廃仏毀釈、神職の居宅となった。
尊勝院・・・明治五年破却。

鵜戸山別当竹篠正は次のような歌を詠んでいます。
”波の織る石の毛衣きてみれば さながら法の姿なりけり”
僧正は、鵜戸の海岸に仏法を見たのでした。

このように由緒ある名刹鵜戸山仁王護国寺も
明治の廃仏の暴徒によって寺院は廃され、別当、僧官はやめて還俗させられ
明治五年には、仁王山門をはじめとして、十二の支院もすべて廃毀してしまい
明治七年三月二十五日を以て鵜戸神宮となったのです。



<青島神社>



今の青島神社は、むかし仏教の弁才天を祀る仏社でした。
「日向記」などによれば、青島は、もともと淡島、または栗島・シダの浮き島とか
あるいはカモツク島などと呼ばれていました。

橘三喜「一宮巡詣記」(1675)に云うとして
『熊野原ヲ行過ギ左ノ方海コシニ吾田山后原(今の木崎のこと)トテ
木花開耶姫ノ出給ヒシ所見ユ、少シ隔テ桜川アリ 沖ノ方ニ、シダノ島見ユ
古歌ニ 桜川瀬瀬ノ白波シゲノレバ ホノカニ見ユルシダノ浮島云々
シダノ島ハ即青島ヲ指テ云ヘルナリ』といっています。

また「社司伝」によれば、『コノ島ハ則チ龍宮浄土ナリ』と
西方浄土に見立てて仏縁ゆかしき島だといっています。
あるいはまた、古伝説によれば、ヒコホホデミノミコトが海中に行くにあたって
塩筒翁がアラメカゴの中に裏白のシダを敷いて
龍宮に案内したといわれているように、ここには
海を守る天女としてあがめられた弁才天を祭っていたのです。
「大宰管内志」の「日向志」にも
「又此海上一里バカリ沖ニ栗島トテ小島アリ
鰒多クツケリ 島ノ山ニ弁才天ノ社アリ
年ゴトノ三月下旬ニ祭アリテ 人多ク集ル
此島極テ南ナレバ平生暖ニテ云々」
と記されており、島には弁才天が祭られ
三月下旬に祭りが行われて、参詣も多く
亜熱帯的風土であることまでが語られている。

弁才天というのは
明らかに仏教いう諸天善神のなかの天のひとつであって
「仏説最勝王弁才天女品」等で明らかなところです。
この天女は、聡明な才を持っているので
弁才天(弁財天というのはあやまり)といい
川のせせらぎの音のように美音で歌を歌うので
美音天とか妙音天ともいわれ、人々に財福と智慧を授けるのです。
また水に関係があるところから
俗には海難や水難を守るカミ・すなわち明神として
あつく尊崇されてきたのでした。
村民はこの淡島(青島)の仏社を、弁天さま、あるいは淡島(青島)大明神としてあがめ
「青島神社」と変わっている今でも
漁夫たちは必ずこの青島大明神(弁天さま)に
豊漁と身の安全を願って漁に出かけています。
愛想間(淡島・栗島)大明神に対する領土の信仰もあつく
元亀三年(1572)三月二十五日に、領主伊東尹祐は、祿十石四斗を寄進しています。

さて、ここの廃仏毀釈は少し違っていました。
この弁才天社にも仏具・経典等があったようですが
廃仏毀釈の折、正直にお上に届け出れば焼き捨ててしまわねばならない
というので、社僧たちは相談の上、事を穏便にすませようとして
次のような要領で報告しました。
一、仏様ヲ以神体ト為シ 且神前ノ祭具ニ仏具ヲ用
其他鰐口梵鐘一切無御座候。
一、旧幕府ヨリ境内山林除地并寄付地判物朱印等無御座候。
一、神器神宝等ニ仏具経巻等御座候。
つまり、「一切無御候」の一点張りで通したのです。
というのも、当時、報告すればすべて奪われてしまうのではないか
という心配があったからです。
由緒等をすべて隠して、由緒書きなどを奪われた寺院も多く
薩摩藩などはこれを堂々と行い
そのため宮崎県の寺院や仏社の由緒書きなどはほとんど
鹿児島県の役人に取り上げられてしまったのでした。
青島弁才天はこうして難はのがれたものの
当時あった宝物や仏典・仏具・経典など
後になって焼却されたのか、それとも残存しているのか
今となっては一切不明です。
ただ最近になって、宮崎に「七福神ツアー」なるものが観光の目玉として出来ました。
そのなかに、この青島神社の弁才天が含まれているのをみれば
その時の難をのがれて、神社としてのかくれみのをきて
命脈を保ってきたものと思われるのです。



<宮崎神宮>



神武天皇社を遷記昇格して、宮崎神宮ができ
県社に列せられたのは明治六年(1873)五月二十五日です。
古記録をひもといてみても
現在の宮崎神宮の地に神武天皇社があったということについての
定かな記録はありません。
古老たちの口碑によれば、明治以前には
今の宮崎地域一帯は馬場であったといわれ
広々としていて、武士や若者たちの
格好の兵馬の訓練場的要素をもつものであったようです。
ただ、その南隅に、小さなお社があって
そこを五所稲荷明神として、庶民の信奉を得ていたことは事実のようです。


(奈古神社)

「古事記伝」に見える神武天皇社とは、今の奈古神社を指すもののようです。
今の名に改められたのは明治維新からのことです。
この地は、奈古山稜の麓にあり、もとは仏式にもとづいたもので
古くは奈古権現といって神武天皇を祀っていました。

神武天皇を日向国にはじめて祀ったのは
「沙汰寺」にしても「帝釈寺」にしても「伊万福寺」にしても「磐戸寺」にしても
はたまた「奈古権現」にしても、みんな僧侶によるものであることは明白です。

神武天皇社が新しく改称されて宮崎神宮となって県社に列せられたのは
明治六年五月二十五日でした。



<霧島岑神社>



日本の神社として、最も古い記録は
平安時代延長五年(927)に撰進された「延喜格式」の中の神名帳に記載されている
式の高い神のやしろ、いわゆる式内社といわれるものです。
宮崎県ではわずか四社を数えるのみでした。

@霧島岑大権現(霧島系神社)
A都農大明神(都農神社)
B都萬大明神(都萬神社)
C産母大明神(江田神社)

霧島山は南九州山嶽仏教のメッカであったのです。
霧島山は、たび重なる噴火のため、寺社が焼失することしばしばでした。
従って、霧島山における寺社の建立は、時代を追うにつれて
遷座を含めて六か所に鎮座することになったのです。
その根本となった開基が、霧島岑大権現なのです。
伝によれば、欽明天皇の時代に、修行僧慶胤がはじめて霧島山を開いて
山嶽仏教の基礎をきづいて仏堂を創建して、霧島の開山となったといわれます。
その後、噴火によって焼失したため、村上天皇の天暦年間(十世紀中頃)に
京都の天台僧性空上人が来山して、まず草庵をこの霧島岑に結び
瀬戸尾に仏道を建立しました。

古い時代では
霧島岑大権現・東社・西社及びその付設権現を含めて、六所権現といっていました。
また、権現者の修行僧が龍に出会って
観世音菩薩を六か所に安置してその成仏を願って以来
霧島山には龍が出なくなったという伝説をふまえて
六観音池(観音池)があるのもご存じの通りです。





古来由緒深い仏社も神社も、その山を開き基礎を築き
庶民の信仰としての開基となったのはすべて修行僧でした。
しかし現在、その開基のない神社が何万とあります。
そのほとんどは明治以後に創られた神社です。
仏社とともに神社を開基したのは、あくまでも僧侶なのです。
現代の人々の中には
神社といえば太古の昔からあったもののように思い込んだり
また神社側でもそう思わせるように仕向けてきているのですが、それは間違いです。
一歩ゆずって、たとい千年前に神社があったとしても
茅葺丸木柱で、礎石もない程の質素なものでしょう。
維持しても二十年が限度です。その例は伊勢の社に見ることができます。
その伊勢宮もそれを維持してきたのは、外ならぬ仏教徒によるので
中でも現大司慶光院俊氏のごときは、代々伊勢尼寺慶光院の家柄で
この慶光院が伊勢遷宮の中心となって尽くしてきたのです。

「日本書紀」によれば
聖武天皇の神亀元年(724)、小倉山を開いて弥勒寺を建立され
その開眼供養がりました。それが宇佐八幡の起源です。
宇佐八幡は聖武天皇の仏教興隆の詔勅のもと
僧侶によって創設されたのである。

太古に社はなかったのです。
その神というのも、例えば三輪明神のように山そのものが神であり
川がそのまま神であり、老木古樹が神であったので
神社なるものはなかったのです。
明治以後、式内・式外とやかましく言われていますが
この「延喜式」の神も、神代からの存在ではありません。
「延喜式」には、行基・伝教・弘法・秦澄・勝道・徳一らの
僧侶の創建した神社を併せのせています。
従って、「延喜式」の神名の巻には、八幡大菩薩といい
あるいは薬師菩薩神社といい
あるいは国分寺霹靂の神社という神号があるのです。

もともとの神の概念は
ただ荒ぶる神、たたりの神として恐れられるものでした。





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