< 日本書紀 と 仏教 >


<第二十九代 欽明天皇(539年)>

冬十月、聖明王は西部姫氏達率怒俐斯致契らを遣わして
釈迦仏の金銅像一体・幡蓋若干・経論若干巻をたてまつった。
別に上表し、仏を広く礼拝する功徳をのべて
「この法は諸法の中で最も勝れております。
解り難く入り難くて、周公・孔子もなお知り給うことができないほどでしたが
無量無辺の福徳果報を生じ、無上の菩薩を成し
譬えば人が随意宝珠を抱いて、なんでも思い通りになるようなものです。
遠く天竺から三韓に至るまで、教に従い尊敬されています。
それ故百済王の臣明はつつしんで侍臣の怒里俐詩斯致契を遣わして帝に伝え
国中に流通させ、わが流れは東に伝わらんと仏がのべられたことを
果たそうとおもうのです」といった。
この日天皇はこれを聞き終わって
欣喜雀躍され、使者に詔して
「自分は昔からこれまで、まだこのような妙法を聞かなかった。
けれども自分一人で決定はしない」といわれた。
群臣に一人一人尋ねられ
「西の国から伝わった仏の顔は、端麗の美を備え
まだ見たこともないものである。これを祀るべきかどうか」といわれた。
蘇我大臣稲目宿禰が申すのに
「西の国の諸国は皆礼拝しています。豊秋の日本だけがそれに背くべきでしょうか」と。
物部大連尾輿・中臣連鎌子が同じく申すのに
「わが帝の天下に王としておいでになるのは
常に天地社稷の百八十神を、春夏秋冬のお祀りされることが仕事であります。
今始めて蕃神(仏)を拝むことになると
恐らく国つ神の怒りをうけることになるでしょう」と。
天皇はいわれた。
「それでは願人の稲目宿禰に受けて、試しに礼拝させてみよう」と。
大臣は跪き受けてよろこんだ。
小墾田に家に安置し、寧ろに仏道を修めるよすがとした。
向原の家を清めて寺とした。
後に国に疫病がはやり、人民に若死にする者が多かった。
それが長く続いて手立てがなかった。
物部大連尾輿・中臣連鎌子は共に奏して
「あのとき、臣の意見を用いられなくて、この病死を招きました。
今もとに返されたら、きっとよいことがあるでしょう。
仏を早く投げ捨てて、後の福を願うべきです」といった。
天皇は、「申すようにせよ」といわれた。
役人は仏像を難波の堀江に流し捨てた。
また寺に火をつけ、余すところなく焼いた。
すると、天は雲も風もないのに、にわかに宮の大殿に火災が起きた。

夏五月一日、河内国から
「泉郡の茅渟の海中から、仏教の楽の音がします。
響きは雷のようで、日輪のように美しく照り輝いています」と知らせてきた。
天皇は不思議に思われて溝辺直を遣わし、海に入って探させられた。
このとき、溝辺直は、海の中に照り輝く樟木のあるのを見つけた。
これを取って天皇にたてまつった。
画工に命じて仏像二体を造らせられた。
これがいま吉野寺に光を放っている樟の像である。


<第三十代目 敏達天皇(572)>

敏達天皇は欽明天皇の第二子である。
母を石姫皇后という。
(石姫皇后は宣化天皇の女(みむすめ)である)
天皇は仏法を信じられなくて、文章や史学を愛された。
二十九年に立って皇太子となられた。
三十二年四月、欽明天皇が亡くなられる。

百済から来た鹿深臣が、弥勒菩薩の石像一体をもたらした。
佐伯連も仏像一体をもってきた。
この年、蘇我馬子宿禰は、その仏像一体を請いうけ
鞍作村主司馬達等と池辺直氷田を四方に遣わして、修行者を探させた。
播磨国に僧で還俗した、高麗人の恵便という人があった。
馬子大臣はその人を仏法の師とした。
司馬達等の女、嶋を出家させて善信尼といった(年齢十一歳)。
善信尼の弟子二人も出家させた。
その一人は漢人夜菩の女豊女で、名を禅蔵尼といった。
もう一人は錦織壺の女石女で、名を恵善尼といった。
馬子はひとり仏法に帰依し、三人の尼をあがめ尊んだ。

物部弓削守屋大連と、中臣勝海大夫は奏上して
「どうして私どもの申し上げたことをお用いにならないのですか。
欽明天皇より陛下の代に至るまで、疫病が流行し、国民も死に絶えそうなのは
ひとえに蘇我氏が仏法を広めたことによるものに相違ありませぬ」
といった。
天皇は詔して、「これは明白である。早速仏法をやめよ」といわれた。
三十日、物部弓削守屋大連は、自ら寺に赴き
床几にあぐらをかき、その塔を切り倒させ、火をつけて焼いた。
同時に仏像と仏殿も焼いた。
焼け残った仏像を集めて、難波の堀江に捨てさせた。
この日、雲がないのに風が吹き雨が降った。大連は雨衣をつけた。
馬子宿禰と、これに従った僧侶たちを責めて
人々に侮りの心をもたせるようにした。
佐伯造御室を遣わして、馬子宿禰の供養する善信尼らを呼ばせた。
馬子宿禰はあえて命に抗せず、ひどく嘆き泣きさけびながら
尼らを呼び出して御室に託した。
役人はたちまち尼らの法衣を奪い
からめ捕えて海石榴市の馬屋館につなぎ、尻や肩を鞭うつ刑にした。
天皇は任那の再興を考え、坂田耳子王を使いにえらばれた。
このとき天皇と大連が急に疱瘡に冒された。
それで遣わされることをやめた。
橘豊日皇子に詔して
「先帝の勅に背かぬように、任那復興の政策を怠るな」といわれた。
疱瘡で死ぬ者が国に満ちた。
その瘡を病む者が
「体が焼かれ、打たれくだかれるように苦しい」
といって泣き叫びながら死んでいった。
老いも若きもひそかに語り合って
「これは仏像を焼いた罪だろう」といった。
夏六月、馬子宿禰が奏上して
「私の病気が重く、今至るもなおりません。
仏の力を蒙らなくては、治ることは難しいでしょう」といった。
そこで馬子宿禰に詔して
「お前一人で仏法を行いなさい。他の人にはさせてはならぬ」といわれた。
三人の尼を馬子宿禰に返し渡された。
馬子宿禰はこれを受けて喜んだ。
珍しいことだと感歎し、三人の尼を拝んだ。
新しく寺院を造り、仏像を迎え入れ供養した。


<第三十一代 用明天皇(585)>

橘豊日天皇は欽明天皇の第四子である。母を堅塩媛という。
天皇は仏法を信じられ、神道を尊ばれた。

二年夏四月二日、磐余の河上で、新嘗の大祭が行われた。
この日天皇は病にかかられて宮中に帰られた。
群臣がおそばに侍り、天皇は群臣にいわれた
「自分は仏・法・僧の三宝に帰依したいと思う。卿からもよく考えてほしい」と。
群臣は参内して相談した。
物部守屋大連と中臣勝海連は、勅命の会議に反対して
「どうして国つ神が背いて、他国の神を敬うことがあろうか。
大体このようなことは今まで聞いたことがない」といった。

天皇の疱瘡はいよいよ重くなった。
亡くなられようとするときに、鞍部多須奈が前に進み出て
「私は天皇のおんために出家して修道致します。
また丈六の仏と寺をお造りしましょう」と奏上した。
天皇は悲しんで大声で泣かれた。
今南淵の坂田寺にある木造の丈六の仏・脇侍の菩薩がこれである。


<第三十二代 崇峻天皇(587)>

善信尼らは大臣(馬子)に語って
「出家の途は、受戒することが根本であります。
願わくば百済に行って、受戒の法を学んできたいと思います」といった。
この月、百済の調使が来朝したので、大臣は使人に語って
「この尼達をつれてお前の国に渡り、受戒の法をならわせて欲しい。
終ったならば還らせるように」といった。
使人は答えて
「私共が国に帰って、まず国王に申し上げましょう。
それから出発させても遅くないでしょう」といった。

大法興寺(飛鳥寺)の仏堂と歩廊の工を起した。


<第三十三代 推古天皇(593)>

仏舎利を法興寺の仏塔の心礎の中に安置した。

聖徳太子は用明天皇の第二子で、母は穴穂部間人皇女である。
皇后は御出産予定日に、禁中を巡察しておいでになったが
馬司の所においでになったとき、厩の戸にあたられた拍子に、難なく出産された。
太子は生まれて程なくものを言われたといい
聖人のような智慧をおもちであった。
成人してからは、一度に十人の訴えを聞かれても、誤られなく
先のことまでよく見通された。
また仏法を高麗の僧慧慈に習われ、儒教の経典を覚可博士に学ばれた。
そしてことごとくそれをおきわめになった。
父の天皇が可愛がられて、宮殿の南の上宮に住まわれた。
それでその名をたたえて、上宮厩戸豊聡耳太子という。

皇太子と大臣(蘇我馬子)に詔して、仏教の興隆を図られた。
このとき、多くの臣・連たちは、君や親の恩に報いるため
きそって仏舎を造った。これを寺という。

皇太子は諸大夫に
「私は尊い仏像を持っている。だれかこの仏をお祀りする者はないか」といわれた。
そのとき秦造河勝が進んで申し出て
「臣がお祀りしましょう」といった。
仏像を頂いて蜂岡寺(今の広隆寺)を造った。

十七条憲法
二にいう。
篤く三宝を敬うように。三宝とは仏・法・僧である。
仏教はあらゆる生きものの最後のよりどころ
すべての国の究極のよりどころである。
いずれの世、いずれの人でもその法をあがめないことがあろうか。
人ははなはだしく悪い者は少ない。よく教えれば必ず従わせられる。
三宝によらなかったら何によってよこしまな心を正そうか。

天皇は皇太子・大臣および諸王・諸臣に詔され
共に等しく誓願を立てることとし
はじめて銅と繍との一丈六尺の仏像を、各一体造りはじめた。
鞍作鳥に命じて造仏の工とされた。
このとき高麗国の大興王は、日本の天皇が仏像を造られると聞いて
黄金三百両をたてまつった。

十四年夏四月八日、銅・繍の丈六の仏像がそれぞれ完成した。
この日、丈六の銅の仏像が元興寺(飛鳥寺)の金堂の戸より高くて
堂に入れることができなかった。
多くの工人たちは相談して、堂の戸をこわして入れようといった。
ところが鞍作鳥の偉いところは、戸をこわしたりせず
立派に堂に入れたことである。その日斎会を設けた。
そのとき許されて参集した人々の数は、数え切れない程であった。
この年から始めて寺ごとに四月八日(灌仏会)・七月十五日(盂蘭盆会)に
参会をするようになった。

五月五日、鞍作鳥に詔して
「自分は仏教を興隆させたいと思い、寺院を建立しようとして、まず仏舎利を求めた。
そのときお前の祖父の司馬達等が、即座に仏舎利を献上してくれた。
また国内に僧尼がなかったとき、おまえの父多須奈が用明天皇のために出家して
仏教を信じ敬った。
またおまえの姨の嶋女は出家して、他の尼の導者として、仏道を修行させた。
今自分が丈六の仏を造るために、良い仏像を求めたとき
汝のたてまつった仏の図は、わが心に適ったものであった。
仏像が完成し、堂に入れるのが難しく、多くの工人は戸をこわして入れようかというとき
おまえはよく戸をこわさず入れることができた。
これらはみなおまえの手柄である」といわれた。
そして大仁の位を賜わった。
近江国坂田郡の水田二十町を賜った。
島はこの田を財源に、天皇のために金剛寺を造った。
これは今、南淵の坂田尼寺といわれるものである。
秋七月、天皇は皇太子を招き、『勝鬘経』を講ぜしめられた。
三日間かかって説き終わられた。
この年皇太子はまた『法華経』を岡本宮で講じられた。
天皇はたいへん喜んで
播磨国の水田百町を皇太子におくられた。
太子はこれを『斑鳩寺』(法隆寺)に納められた。
十五年春二月一日、壬生部が設けられた。
九日詔して
「古来、わが皇祖の天皇たちが、世を治めたもうのに
つつしんで厚く神紙を敬われ、山川の神々を祀り
神々の心を天地に通わせられた。
これにより陰陽相和し、神々のみわざも順調に行われた。
今わが世においても、神紙の祭祀を怠ることがあってはならぬ。
群臣は心を尽くして、よく神紙を拝するように」といわれた。
十五日、皇太子と大臣は、百寮を率いて神紙を祀り排された。

「日本国に聖人がおられた。聖徳太子と申し上げる。
天からすぐれた資質をさずかり、大きな聖の徳をもって
日本の国にお生まれになった。
中国三代の聖王をも越える程の、大きな仕事をされ
三宝をつつしみ敬って、人民の苦しみを救われた。
真実の大聖である。
その太子がなくなられた。
自分は国を異にするとは言え
太子との心のきずなは断ちがたい。
自分一人生き残っても何の益もない。
来年の二月五日には、自分もきっと死ぬだろう。
上宮太子に浄土でお会いして、共に衆生に仏の教えをひろめよう」
といった。
そして慧慈は定めた日に正しく死んだ。
時の人たちは誰もが
「上宮太子だけでなく、慧慈もまた聖である」といった。

三十三年夏四月三日
一人の僧が斧で祖父を打った。天皇は馬子を召し詔して
「出家した者はもっぱら三宝に帰し、戒律を守るのに
何でためらいもなく、簡単に悪逆の罪を犯したのだろう。
聞くところでは、僧が祖父を斧で打ったという。
諸寺の僧尼をすべて集めて、よく調べよ。
もし事実なら重く罰せねばならぬ」といわれた。
諸寺の僧尼を集め調べ、悪逆の行為の僧尼を処罰しようとされた。
このとき百済の僧観勒は上表して
「仏法の教えは印度より漢に伝えられ、三百年を経て
百済国に伝わりましたが、まだ僅か百年であります。
百済王は日本の天皇の英明であられることを聞いて
仏像や仏典をたてまつりましたが、まだ百年のもなりませぬ。
このような時、僧尼は、まだ法律にもなれていないので
たやすく悪逆の罪を犯します。
ですから多くの僧尼は恐縮しても、いかにすべきか分からないのです。
どうか、悪逆の行為のあった物以外は
全部許して罪にされませぬようにお願い致します。
これが仏の功徳でございます」といった。
天皇は聞き入れられた。十三日詔して
「道を修める人も、法を犯すことがある。
これでは何によって俗人に教えられようか。
今後、僧正・僧都などを任命して、僧尼を統べることとする」といわれた。


<第三十四代 舒明天皇(629)>

子たちに語って、『諸悪莫作・衆善奉行』と仰せられた。

秋七月、詔して、「今年、大宮と大寺を造らせる」といわれた。
百済川のほとりを宮の地とした。西国の民は大宮(百済宮)を造り
東国の民は大寺(百済大寺)を造った。
また書直県をそのための大匠(建築技師長)とした。
秋九月、大唐の学問僧恵隠、恵雲が新羅の送使に従って都に入った。

五月五日、盛大な斎会を催され、僧恵隠を招いて無量寿経を説かせられた。


<第三十五代 皇極天皇(642)>

二十五日、群臣が語り合って
「村々の祝部の教えに従って、牛馬を殺して諸社の神に祈ったり
あるいは市を別の場所に移したり、また河の神に祈ったりしたが
雨乞いの効き目はなかった」と語り合うと、蘇我大臣は
「寺々で大乗経典を転読しよう。仏の教えに従い
悔過して、うやうやしく雨乞いしよう」といった。
二十七日、百済大寺の南の広場で
仏菩薩の像と四天皇の像とを安置し
多くの僧を招き大雲経等を読ませた。
蘇我大臣は手に香炉を取り、香を焚いて発願をした。
二十八日、小雨が降った。二十九日は雨乞いができず、読経を止めた。

九月三日、天皇は大臣(蝦夷)に詔して
「大寺を造りたいと思う。近江国と越国の、公用の人夫を集めるように」といわれた。
また諸国に命じて船舶を建造させた。


<第三十六代 孝徳天皇(645)>

天万豊日天皇は皇極天皇の同母弟である。
仏法を尊んで神々の祭りを軽んじられた。

「古人大兄は殿下の兄上です。軽皇子(孝徳天皇)は殿下の叔父上です。
古人大兄がおいでになる今、殿下が皇位を継がれたら
人の弟として兄に従うという道にそむくでしょう。
しばらく叔父上を立てられて、人々の望みに叶うなら良いではありませんか」といった。
中大兄は深くその意見をほめられて、ひそかに天皇に奏上された。
皇極天皇は神器を軽皇子に授けて位を譲られ
「ああ、なんじ軽皇子よ」云々といわれた。
軽皇子はいくども固辞され、ますます古人大兄に譲って
「大兄命は舒明天皇の御子です。そしてまた年長です。
この二つの理由で天位におつきになるべきです」といわれた。
すると古人大兄は座を去り、退いて手を胸の前で重ねて
「天皇の仰せのままに従いましょう。どうして無理を私に譲られることがありましょうか。
私は出家して吉野に入ります。仏道の修行につとめ
天皇の幸せをお祈りいたします」といわれお断りになった。
言い終って腰の太刀を解いて地に投げ出された。
また舎人らに命じて、みな太刀をぬがされた。
そして法興寺の仏殿と塔との間においでになり
みずからひげや髪を剃って袈裟を召された。

八日、使いを大寺に遣わして、僧尼を召し集め詔して
「欽明天皇の十三年に、百済の聖明王が仏法をわが朝に伝えた。
このとき群臣は皆広めることを欲しなかった。

沙門狛犬法師・福亮・恵雲・常安・霊雲・恵至・寺主僧旻・道登・恵隣・恵妙
を十師とした。
別に恵妙法師を百済寺の寺主とする。
この十師たちは、よく多勢の僧を教え導いて、釈教を行うこと必ず法の如くせよ。
およそ天皇から伴造に至るまでの身分に人の建てたところの寺が
営むことの難しい場合は、自分がまな助けてやろう。
今寺司と寺主とを任命する。
諸寺を巡って僧尼、奴婢、田地の実状を調べて
ことごとく明かにし報告せよ」といわれた。
来目臣・三輪色夫君・額田部連甥を法頭とした。

三韓に学門僧を遣わした。
八日に阿部大臣が四衆を四天王に招き、仏像四体を迎えて塔の内に納めた。
霊鷲山の形を造った。鼓を累積してこれを造った。

この月丈六の繍仏・脇侍・八部などの三十六体の像を造りにかかった。
この年、漢山口直大口は詔を承って、千体の像を刻んだ。
倭漢直県・白髪部連鐙・難波吉士胡床を安芸国に遣わして
百済船二隻を造らせた。
二年春三月十四日、丈六の繍仏などが出来上がった。
十五日、皇極上皇は十人の法師たちを招いて斎会を行われた。
夏六月、百済・新羅が使いを遣わして調をたてまつり、物を献上した。
冬十二月の晦日、味経宮で二千百余人の僧尼を招いて、一切経を読ませられた。
この夕、二千七百余の灯を朝の庭にともして、安宅経・土側経などの経を読まされた。

夏四月十五日、僧恵隠を内裏に召され、無量寿経を説かしめられた。

六月、百済、新羅が使いを遣わして調をたてまつり、物を献上した。
また各所の大道を修理した。
天皇は僧旻が死んだことを聞かれ、弔問使を遣わし
たくさんの贈物をおくられた。
皇極天皇・皇太子らはみな使いを遣わして、喪を弔わせ
法師のために画工狛竪部子麻呂・鮒魚戸直らに命じて
仏像や菩薩の像を多く造り、川原寺に安置した。
ある本には山田寺にとある。


<第三十七代 斉明天皇(654)>

十五日に須弥山を像どったものを、飛鳥寺の西に造った。
また盂蘭盆会を行われた。夕に都貨羅人に饗を賜った。

十五日、郡臣に詔して、京内の諸寺に、盂蘭盆経を講説させて
七世の父母に報いさせられた。

この月、役人たちは勅をうけたまわって、百の高座・百の納袈裟を作って
仁王般若波羅蜜経の法会を設けた。

また石上池の辺りに須弥山を造った。
高さは寺院の塔ほどあった。


<第三十八代 天智天皇(661)>

四年春二月二十五日
間人大后(天智天皇の妹)が薨去された。
三月一日、間人大后のために、三百三十人を得度(出家)させた。

夏四月三十日、暁に法隆寺が出火があった。
一舎も残らず焼けた。大雨が降り雷鳴が轟いた。

九月、天皇が病気になられた。
冬十月七日、新羅が沙食金万物らを遣わして調をたてまつった。
八日、内裏で百体の仏像の開眼供養があった。
この月天皇が使いを遣わして、袈裟・金鉢・象牙・沈水香・栴檀香
および数々の珍宝を、法興寺(飛鳥寺)の仏にたてまつらせられた。

十七日、天皇は病が重くなり、東宮を呼ばれ、寝所の召されて詔し
「私の病は重いので後事をお前に任せたい」云々といわれた。
東宮は病と称して、何度も固辞して受けられず
「どうか大業は大后にお授け下さい。そして大友皇子に諸政を行わせて下さい。
私は天皇のために出家して、仏道修行をしたいと思います」といわれた。
天皇はこれを許された。
東宮は立って再拝した。内裏の仏殿の南においでになり
胡床に深く腰かけて、頭髪をおろされ、沙門の姿となられた。
天皇は次田生磐を遣わして袈裟を送られた。
十九日、東宮は天皇にお目にかかり
「これから吉野に参り、仏道修行を致します」といわれた。
天皇は許された。
東宮は吉野に入られ、大臣たちがお仕えし宇治までお送りした。

二十三日、大友皇子は内裏の西殿の織物の仏像の前におられた。
左大臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連・蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣が侍っていた。
大友皇子は手に香鑪をとり、まず立ち上がって
「六人は心を同じくして、天皇の詔をうけたまわります。
もし違背することがあれば、必ず天罰を受けるでしょう」云々とお誓いになった。
そこで左大臣蘇我赤兄らも手に香鑪を取り
順序に従って立ち上がり涙を流しつつ
「臣ら五人は殿下と共に、天皇の詔を承ります。
もしそれに違うことがあれば、四天王がわれわれを打ち
天地の神々もまた罰を与えるでしょう。
三十三天(仏の守護神たち)も、このことをはっきり御承知おきください。
子孫もまさに絶え、家門も必ず滅びるでしょう」云々と誓いあった。
二十四日、近江宮に火災があった。大蔵省の第三倉から出火したものである。
二十九日、五人の臣は大友皇子を奉じて、天皇の前に誓った。
この日新羅王に、絹五十匹・綿一千斤・なめし皮一百枚を賜った。


<第四十代 天武天皇(672)>

四年冬十月十七日、天皇は病臥されて重態であった。
蘇我臣安麻呂を遣わして、東宮を呼び寄せられ、寝所に引き入れられた。
安麻呂は元から東宮に好かれていた。
ひそかに東宮を顧みて「よく注意してお答えください」といった。
東宮は隠された謀があるかも知れないと疑って、用心なされた。
天皇は東宮に皇位を譲りたいといわれた。
そこで辞退して
「私は不幸にして、元から多病で、とても国家を保つことはできません。
願わくば陛下は、皇后に天下を託して下さい。
そして大友皇子を立てて、皇太子として下さい。
私は今日にも出家して、陛下のため仏事を修行することを望みます」といわれた。
天皇はそれを許された。即日出家して法服に替えられた。
それで自家の武器をことごとく公に納められた。

十九日、詔して
「郡臣・百寮および天下の人民は諸悪をなしてはならぬ(涅槃経)。
もし犯すことがあれば、相応の処罰をする」といわれた。

六月、この夏旱魃があった。
使いを各地に遣わし、幣帛を捧げてあらゆる神々に祈らせになり
また多くの僧尼をまねいて三宝に祈らせられた。
しかし雨が降らず五穀はみのらず百姓は飢えた。

八月十五日、飛鳥寺で盛大な斎会をもうけ、一切経を読ませられた。
天皇は寺の南門におでましになり、仏を拝礼された。

冬十月、この月、勅して
「そもそも僧尼は、常に寺内に住して仏法を護持すべきである。
しかし老いたり病んだりして、狭い僧坊に寝たまま
長らく苦しむのでは、動くにも不自由であり、清浄なるべき場所もけがれる。
それ故今後はそれぞれの親族か、信心の厚い者をこれにつけ
一つ二つの屋舎を空いた所に建てて、老人は身を養い
病人は薬を服するようにせよ」といわれた。

十一月十二日、皇后が病気になられた。
皇后のために誓願をたて、薬師寺を建立することとなり
百人の僧を得度させたところ、病気は平癒された。
この日、罪人を赦免された。

十六日、月蝕があった。草壁皇子を遣わして、僧恵妙の病気を見舞われた。
翌日恵妙は死んだ。三皇子を遣わして弔わされた。

秋七月十五日、皇后は仏に誓願して盛大な斎会を催され
経を京内の諸寺で説かせられた。

天皇は鏡姫王の家にお越しになり、病気を見舞われた。
五日、鏡姫は薨じた。
この夏はじめて僧尼を招いて宮中で安吾をさせられ
よく仏道を修行する者三十人を選んで得度させられた。

二十七日、詔して
「国々で、家ごとに仏舎をつくり、仏像と経典を置いて、礼拝供養せよ」といわれた。

八月十二日、天皇は浄土寺におでましになった。

十五日、この日、詔して
「およそすべての歌男・歌女・笛を吹く者は
自分の技術を子孫に伝え、歌や笛に習熟させよ」といわれた。

二十四日、天皇が病気になられたので
三日間、大宮大寺・川原寺・飛鳥寺で誦経させ
三寺に稲をお納めになった。

冬十月十七日、伊勢王らはまた東国に向かうので、衣・袴を賜わった。
この月、金剛般若経を宮中で説かせた。

十六日、伊勢王および官人らを飛鳥寺に遣わして、衆僧に勅して
「この頃わが体が臭くなった。願わくば仏の威光で身体が安らかになりたい。
それ故、僧正・僧都および衆僧たちよ、仏に誓願してほしい」といわれ
珍宝を仏にたてまつられた。

二十八日、僧法忍・僧義照に老後のために
食封各三十戸をそれぞれに賜わった。

二十日、改元して朱鳥元年とした。
宮を名づけて飛鳥浄御原宮といった。
二十八日、仏道を修行する者の中から
七十人を選んで得度させ、宮中の御窟院で斎会を設けた。

この月、諸王・諸臣は協力して天皇のために観世音菩薩を造り
観世音経を大官大寺で講説させた。

八月一日、天皇のために八十人の僧を得度させた。
二日、僧尼合わせて百人を得度させた。
百の菩薩像を宮中に安置し、観世音経二百巻を読ませた。


<第四十一代 持統天皇(686)>

十二月十九日、天武天皇のために、無遮大会を
五つの寺(大官大寺・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田)で行われた。
二十六日、京の身寄りのない者、老齢者などに、それぞれ布帛を賜わった。
閏十二月、筑紫大宰が、高麗・百済・新羅の百姓の男女および僧尼
総計六十二人をたてまつった。
この年、蛇と犬とが相交んだのがあったが、しばらくして両方とも死んだ。

夏四月十日、筑紫大宰が
自ら帰化してきた新羅の僧尼と百姓の男女二十二人をたてまつった。
武蔵国に居らせて土地食糧を給され、生活できるようにされた。

六日、京の老年男女がみな望んで、橋の西で慟哭した。
二十八日、天皇は直大肆藤原朝臣大嶋・直大肆黄書連大伴に命じ
三百人の高僧たちを飛鳥寺に招き、各人に袈裟を一揃いずつ施された。
「これは天武天皇の御服で縫い作ったものである」といわれた。
詔のことばは悲しく心を破り、詳しくのべるに堪えなかった。

三年春一月三日
務大肆陸奥国置賜郡の棚造の蝦夷の指利古の子
麻呂と鉄折が、髭や髪を剃って沙門になりたいと願い出た。
詔して
「麻呂は年若いが、優雅で物欲も少なく、菜食をして戒律を守るようになった。
所望通り出家修道するがよい」といわれた。

二月一日、天皇は公卿らに詔して
「卿たちよ、天武天皇の御世に、仏殿・経蔵をつくり、毎月六回の斎会を行じた。
天皇はその時々に、大舎人を遣わして問わされた。
わが世にもこのようにしたいと思う。それ故、心積み仏法をあがめるよう」といわれた。
この日、宮人に位記を授けられた。

十一年六月二日、罪人を赦された。
六日、詔して経を京畿の諸寺に読ませた。
十六日、五位以上を遣わして、京の寺をはらい清めた。
十九日、幣帛を神々にたてまつった。
二十六日、公卿百官は天皇の病気平癒を祈り、仏像を造ることを始めた。
二十八日、大夫・謁者を遣わして諸社の詣でて雨乞いをさせた。

二十九日、公卿百寮は祈願の仏像の開眼式を、薬師寺で行った。
八月一日、天皇は宮中での策を決定されて
皇太子(文武天皇)に天皇の位をお譲りになった。





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